浅草人力車・吉兆屋

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2017.10.19ブログ

人力車のお兄さん ザックリブログ 人力車の発明者

吉兆屋の軍曹です(^o^)

浅草で人力車を曳いていると、小さな子供とお母さんが、よくこんな会話をしています。

子供   「お母さん あれ何~?」
お母さん 「あれは人力車よ」
子供   「人力車って~?」
お母さん 「人を乗っけて走るのよ」
子供   「ママ人力車のりた~い」
軍曹   「乗れますよ~(笑)」

今回は、日本人なら誰でも知っている“人力車”についてのお話です!


人力車 明治時代


人力車って、学校で習ったりしないのになぜかみんな人力車の存在を知ってますよね?
テレビで見たから?
本で見たから?
なぜでしょう?

実は、人力車は日本人が発明した日本発祥の乗り物なんです!!

「そんな事、知ってるわい」っと、ブログを読んでいる人の声が聞こえてきそうですが、身近にある物の発明者の事ってあんまり知りませんよね?
たとえば、皆さんが良く乗っている“自転車”は、1817年にドライス男爵が発明したとか!



人力車の発明者は、和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助の三人です。
明治3年(1870年)2月22日に人力車の製造と営業を東京府に願い出て許可をもらった事が、人力車の始まりです。



和泉要助(1829―1900)筑前国鞍手郡平泉村(直方市中泉)生まれ


人力車は江戸時代のイメージも強いですが、明治時代に始まったんですね!
江戸時代は駕籠が活躍していましたね!

しかし、人力車はもっと前から存在していたんです!!

十七世紀末から十八世紀初頭にかけて活躍していたフランスの画家が描いた絵に人力車が描いてあるんです!
貴族階級の自家用車として使われていたようです。


フランスの画家の書いた絵


でも、人力車の定義って何でしょうか?
仮に「人が乗った車を人が引く」乗り物だとしたら、ものすごく簡単な構造だし、もっと昔からありそうですね。



そうなってくると、先に特許を出願した人が、人力車の発明者になったってことでしょうか。

実は、明治2年にアメリカ人宣教師ゴーブルが日本の荷車と、馬車をヒントに腰かけ付きの人力車を作り、営業も考えていたそうです。
横浜で、ゴーブルが人力車の作り方を日本人に伝授したとか、設計図を日本人に預けたが、紛失してしまい、翌年東京で和泉要介達が人力車の営業を始め、和泉要介達が作った人力車がゴーブルの人力車にそっくりだったとか。

もしかしたら、関係があるかも知れませんが、こればっかりはわかりません。

ちなみに、和泉要助は“西洋馬車”を見て人力車を思いついたそうです。
鈴木徳次郎は“荷車”を見て人力車を思いついたそうです。

ちなみに、江戸時代東海道の道中で荷物を乗せる小車に人を乗っけて運ぶ商売も始まっていたそうです!
駕籠より楽だし、人手も少なくて済みますしね!


今、こどもの時にテレビで見た、「子連れ狼」を思い出しました。
今度、レンタルして、見てみたいですね(笑)


では、最初の話に戻りますが
明治3年2月22日に、東京日本橋の高札場から人力車の営業が始まったんです!!

「人が乗った車を人が引く」のが人力車の定義と勝手に決めましたが、ここで、人力車の新しい定義を考えてみました。

「人が乗った座席付きの車を人が引く」どうでしょうか?

それこそが“人力車”なのです!!

人力車の人気はどんどん上昇し、東京府は人力車営業組合を組織させ、和泉達を人力車総行事に任命しました。
営業許可書の発行や新規加入者を管理し、一人当たりからお金を(約50銭)を徴収させました。


しかし、東京府は明治4年に車税を取るようになり、人力車の特許も一時中断となりました。
明治6年に和泉要助達の人力車の発明の特許申請を取り下げ、人力車総行事も廃止になってしまうんです。
東京府はこれまでの手数料として、一人ずつ100円の手数料を渡し、発明者3人の権限はすべてなくしたそうです。
明治18年、専売特許条例が布告された時に、改めて出願するが、条例以前のものは許可せずとの事で、認められませんでした。

そんな中、人力車大盛況時代に突入。特許などの権限を失った発明者たちは、さぞかし悔しかった事だと思います。

和泉達は、東京府に再三にわたり懇願したが、いい案は見つからず、とうとう和泉達は大蔵省に頼み込みました。
大蔵省は、東京府に対して和泉達に2千円を与える事と、今後の懇願は一切受け付けない事を指示したそうです。

その後、3人の発明者達は社会から忘れられた存在になりました。

ただ、明治10年に第一回内国勧業博覧会に和泉要助の出品した二点の人力車が入賞して、一点は他を圧して見事に一位の龍紋賞、もう一点は三位の花紋章を受賞したそうです。



人力車大盛況時代に入ると、二人引き人力車や、二人押し人力車が作られ、3人乗り、4人乗り、6人乗り、9人乗り人力車まで作られたそうです!! 


二人引き人力車


二人押し人力車


人力車の輸出も年々増加し上海、香港、シンガポール、アフリカまで様々な国に輸出され、国内でも明治29年度の人力車の全国統計は21万台を超える想像以上の人気でした。

しかし、発明者の3人のうち鈴木徳次郎・高山幸助はすでにこの世を去り、70歳を過ぎていた和泉要助は、貧しい生活をしていました。
発明者がむくいられていない事と、特許の必要性を感じ、関信之介衆議院議員が発明者3人に年金を渡す案を出したそうです。
衆議院では否決されましたが、明治33年賞勲局から3人に対して賞金200円ずつが渡されたそうです。
72歳の和泉要助は、かろうじてこの栄誉を手にし瞑目することが出来たそうです。




現在、東京都台東区谷中にある長明寺境内と、東京と港区北青山にある善光寺境内に「人力車発明記念碑」があります。


長明寺 人力車記念碑



長明寺には、和泉要助のお墓があり、我々は毎年お墓詣りに行き、人力車の活躍を報告しています。



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